1.神々への祈りから

「クイチャー・ブドゥイ゜」のクイは「声」、「チャー」が「合わす」、ブドゥイ゜は「踊り」の意と解されています。

性別年齢等に関係なく、誰でも踊れる、宮古地域を代表する民俗芸能――集団舞踊です。通常は誰からともなく、手拍子を打ちながら歌いだし、次第に円陣をつくりつつ、両手を上下に振り、大地を踏みしめて飛び、跳ねる。

はじめはゆるやかに、次第に激しく、リズミカルであると同時に、ダイナミックな繰り返しの中で、埃を舞い上げ、雲を呼ぶ、というところから、クイチャーは雨乞い祈願に始まるとされ、クイを神に「乞う」と解する向きもあります。

時代が下がって、若い男女の娯楽に転じたとき、夜を徹して歌い、踊り明かした、と伝えられています。

2.歌謡の変遷

琉球弧――奄美・沖縄・宮古・八重山の島々の歌謡は、呪祷的歌謡から叙事的歌謡へと変遷してきたと言われています。

原始・古代社会において、人知の及ばぬ自然災害や疫病などから身を守り、家族や集落の繁栄を神々に祈る際に唱え、歌われる言葉、呪祷的歌謡から、集落を率いるすぐれた指導者・英雄の登場で、その事績等を讃える叙事的歌謡、ついでこれら歌謡のなかの抒情的歌謡への変遷です。

クイチャーは、叙事的歌謡を歌い継ぐなかで、人々の日常生活のさまざまな出来事や願望、男女間の情愛等をも歌っています。

3.国王の面前で

クイチャーの期限は定かではありませんが、14世紀末、宮古の与那覇勢頭豊見親が沖縄本島の中山王権(のちの琉球王国)に朝貢したとき、供の高真佐利屋は毎夜遠見台に上って遥かに故郷の宮古を偲んで「アヤグを唱え、歌を詠じた」と伝えられています。

17世紀中葉の記録によれば、宮古の最高の神職大安母(ウプアム・女性)は国王から任命されるとき、首里城正殿のウナー(前庭)に筵を敷いて、お神酒や菓子などをお供えしてから供とともに「アヤグを歌い、クイチャーを踊る」の慣例としています。

このころの宮古の「アヤグ」や「クイチャー」は、首里城で、国王の面前で披露されるほど、宮古を代表する歌舞として知られていたのでしょう。

4.神々と共に安らぐ

ところが18世紀後半に入ると、様々な祭祀や年中行事はじめ、その延長でもあるクイチャーまで禁止されたりします。宮古は月夜に百姓の男女や役人の子など若者が道路や浜辺で円陣をつくって踊っているのを止めよ、ちにお布令です。

裏を返せばこのころの宮古では年中行事や月夜には若い男女が野外で輪になって踊る光景が一般的に見られたということでしょう。貢租(税金)として、穀物や織物を取り立てる役人の側からは、時間・経費・労力等の無駄とみなされたようです。

しかし現代と違って、テレビやラジオ、映画、演劇、音楽会、新聞、雑誌など、娯楽らしいものが何一つない時代です。民衆にとって御嶽の神様にお供えしたわずかばかりのお下がりをいただく。いわば神とともにある安らぎの場です。それを奪ってしまうことはかえって生産を阻害し、貢租に支障を来したことでしょう。しばらくすると、「祈願、祭事、遊事等」は従来通りでよいと解禁せざるを得なかったのです。

5.人頭税社会

近世(1609~1879年)から近代初期(~1902年)にかけて、宮古は人頭税社会です。貢租は個人(数え15~50歳の男女)責任であるばかりでなく、村(現行大字)全体の連帯責任でした。

民衆にしてみれば神郷の減少は荷重負担につながります。このため村を超えての婚姻さえ事実上難しく、村内婚が一般的な慣習になっていったようです。村ごとに完結した小社会であったとも言えるでしょう。そのことは小さな宮古で集落ごとに微妙な違いをみせる方言によっても知ることができます。

1893(明治26)年11月、宮古農民代表4人は、明治政府並びに国会へ「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革」=人頭税廃止請願のために上京しました。翌1894年春、宮古に帰ってきたとき、宮古中から集まった人々は漲水の浜から鏡原の馬場まで、クイチャーを踊り熱狂的に歓迎した、と伝えられています。

おそらくそのときのクイチャーはまとまった一通りではなく、それぞれの村ごとに違ったクイチャーであったことでしょう。そのなかからいつしか次第に全体としてまとまった「漲水のクイチャー」が生み出されたことでしょう。

6.時代に即応した創造へ

現代のクイチャーは、ほとんどの集落で、三線や鉦鼓等の伴奏が付き、衣装も少々派手になった感じがしますが、これは太平洋戦争後のことです。

以前は男女ともに普段着、時として野良帰りの作業着のまま、無伴奏で歌い、踊っていたものです。多くの先学の苦心の末、三線の楽譜である「工工四」ができ、さらにはラジオやテレビ等の影響もあって、現在の姿に変わってきています。

ともあれ「クイチャー」は豊穣を願う民衆の祈りの中から生まれ、唯一の娯楽として親しまれ、宮古を代表する民俗芸能へと発展してきました。これからも伝統を大事に守りつつ、時代に即応した新しいクイチャーが生み出されていくことでしょう。